赤膚焼について
衣だに二つありせば赤膚の
    山に一つは貸さましものを
(新続古今和歌集)
創始は遠く垂仁帝の御代(36年〜70年)で、埴輪で有名な例の野見宿彌(のみのすくね)の埴採り、
土師(はじ)部 (土部{つちのべ} 職) 発祥の地と推される赤膚町(五条山)付近に興り、
社寺の用品(瓦が中心)に装飾性を持つ程度であったと思われます。

文献に残るのは天正年間(1573年〜1592年)以後のことで豊臣秀吉の弟、
大和大納言秀長が生駒郡の郡山城=現在の大和郡山市にいた時、
尾張常滑から陶工与九郎という者を招いて西の京で茶器を作らせたとあり、
当時は素焼の西の京風炉と称して茶器を作った模様で、
後世赤膚の旧窯というのはこれに当たるものであります。
旧窯の以前にあったといわれる古窯とは、前記奈良朝以後桃山期に至る間の未詳の時代で、
薬師寺供仏料の斉器を作ったやや美術的な窯も或る時代にはあったらしく、
現在の奈良市西の京の金岡山がその跡らしいともいわれています。

従って赤膚焼を大別しますと、
奈良朝、桃山期の古窯、徳川期の旧窯、徳川末期から現在の新窯の三期となり、
今日の赤膚焼を確立したのは旧窯の中期以降に属します。

天保年間(1644年〜1648年)京都陶芸界の巨匠、野々村仁清が各地巡歴の途中五条山に立ち寄って
得意の点茶器、水指、皿、鉢等の製法を指示口授するに及んで栄えたようです。

その後、享保年間(1716年−1736年)大和郡山の城主である柳沢尭山(ぎょうざん)
公が民芸作興の趣旨のもとに京都清水の陶工伊之助、
治玄勝(治兵衛)等を招致して五条山の廃窯を復興し、
郡山藩御用窯として保護奨励を加えるに至って茶器や日曜雑器を多く作るようになりました。

陶器考によれば「其の質、長門国松本焼の如く色灰白色にして其の上に黒斑の釉(ゆう)を施せり。工人業を伝えて今日に至る」とあります。
この時代に只今の赤膚焼の基礎が出来たものとみられますが、
これを更に確立し赤膚の名声を高めたのが木白です。
奈良人形に森川杜園が出て一刀彫の声価を高めたのと丁度軌を一にするもので、
赤膚焼にとっては中興の祖というべきで赤膚焼を語るとなれば必然、
木白について数行をさかなければなりません。

木白は、寛政12年(1801年)大和郡山堺町の郡山藩御用小間物商柏屋を営む奥田家に生まれ、
幼名を亀松といい、後佐兵衛と改め天保元年(1830年) 31歳で家督を相続し、
更に名を武兵衛と改めました。

木白は俳名で平素茶を嗜み、天保6年36歳の折初めて慰みに楽焼を作ったのが陶工となる端緒で、
しだいに陶器への情熱を燃やし、嘉永3年51歳の折には江戸の注文に応じる程になったのであります。
その子作次郎は、木白20歳の時に生まれ幼名辰次郎、後、佐久兵衛といい、
俳名を木左と号してこれまたよく陶器を作って陶印等親子同一であった為、
世間には2代目木白ともいわれます。

この家に残った看板に、「模物類、瀬戸、松本、萩、唐津、高取、青磁、人形手、御本半使、南蛮楽焼類、木白」
とある如く、その作品は誠に多種多様で東西各種の焼きをよく模し、
この外、家伝釉薬調合法には、仁清、朝鮮、黄瀬戸、織部、生瀬、備前、緋襷(ひだすき)、相馬、黄医伊羅保等もあり、
又、陶土釉薬(ゆうやく)も多様な工夫を凝らし、大変な勉強家、努力家であると共に、
その作品はすこぶる雅致(がち)であり箆(へら)使いも極めて力強いものがあって立派な芸術家でもあったのであります。
木白は明治4年2月享年72歳をもって、又、木左は明治12年6月54歳で没しました。

木白又は木白父子の業績は、一地方窯であった赤膚焼を東京を始め京阪はいうまでもなく全国各地にこれを拡め
芸術性ある名陶としての声価を高めたことで、この名声が木白没後の業界に大きく尾を引いて、
五条山その他にあった往時の廃窯を復興する者相次いで出て、
今日の隆盛をみるの因をなしたものであります。

いささか旧聞に属しますが、昭和31年、アメリカのデザイナー、ポールオットーマッテが
アメリカ向輸出品としてのデザイン指導に来県した時、
奈良で一番喜んだのが赤膚焼であり、赤膚の中で一番推奨したのが最も民芸的な味のものでした。
磁器の持つ近代性に何程かの接近を試みようとする傾向も
アメリカの専門家の鑑賞との開きには私共に大きな示唆を与えるもので、
今度の赤膚の在り方に一つの課題を投げかけています。

永島 福太郎著 赤膚焼きの源流 より引用

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